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仙頭実千恵 出会いの記録
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五島珊瑚船遭難供養の旅
1. 珊瑚の縁に結ばれて 2005年10月27日(木)
長崎から西へ100キロほどに浮かぶ五島列島は、明治時代の初期に近海で珊瑚が見つかってから昭和にかけて珊瑚漁が盛んに行われ、高知や沖縄と並ぶ珊瑚の産地として知られています。その五島から南西およそ80kmにある男女群島付近で、明治39年(1906年)10月24日、一度に172隻に及ぶ珊瑚漁船が遭難する気象事故がありました。
今年は、その事故からちょうど100年目にあたり、五島市富江町の妙泉寺で百回忌の法要が営まれます。私は、6年前に長崎への出張の合間をぬって五島の富江まで足を運び、妙泉寺さんを訪ねたことがありました。そのとき、住職の阪倉さんから五島の珊瑚船遭難について色々とお話を聞いており、そのような縁があって来る10月24日と25日に行われる法要に出席させていただくことになりました。
そのことについては、また後日、高知へ帰ってから改めて報告したいと思いてますが、今日はそれに先立って6年前に初めて五島を訪れたときのことをお話しいたします。 ■ はじめに 私が五島へはじめて訪れたのは平成11年11月のことでした。仕事で長崎に10日間ほど滞在しており、その合間の1日を使って五島まで足を運びました。
五島については、昔、珊瑚の原木の入札が行われていたころに私の義父が何度か行っていたと聞いていましたが、私が強く興味を持つきっかけとなったのは、新田次郎さんの『珊瑚』という小説でした。この小説は、五島で珊瑚漁が盛んだった明治30年代に、五島近海で起こった大規模な珊瑚船の遭難事故を主題にして、五島の富江という小さな漁師町を舞台に、珊瑚に人生をかけた3人の青年を描いたものです。登場人物は架空のものですが、珊瑚漁や遭難事故、珊瑚の取引に関する事情などは事実に基づいており、当時の珊瑚にかける漁師達の思いを見事に描き出しています。私は、珊瑚という素材に魅力を感じて現在のような作品を作り始めました。しかし、珊瑚に携わって数十年を経て、多くの珊瑚を見て、珊瑚に関わる人々と会い、歴史を知り、今では珊瑚に珊瑚以上のものを感じます。新田次郎さんの小説からは、命がけで海のそこから珊瑚を引き上げてきた、かつての五島の漁師たちを知りました。珊瑚が私の手もとに届くまでには、多くの人の努力がありますし、日本で珊瑚業が今のように続いてきたのも、珊瑚に人生をかけた多くの人たちの努力に支えられてのことです。ですから、私は、新田次郎さんの『珊瑚』を読み終えたとき、チャンスがあれば五島へ、五島の富江へ行ってみたいと思っていたのです。 ■ 五島へ 長崎から西へ百キロほどに浮かぶ五島へは、九州商船のジェットフォイルで行きました。フェリーの特急便といったもので、五島の福江港までの133.2kmを普通のフェリーが3時間半ほどで行くところを1時間半で行ってしまいます。長崎港から、朝7時40分の始発に乗って向かいました。 ■ 福江へ ジェットフォイルは、五島列島の一番南にある一番大きな島、福江島の福江港につきます。五島列島最大の町であった旧福江市に位置します。"旧"というのは市町村合併によって行政区画が変わったからです。2004年8月1日から五島列島は福江島を含む列島の下半分を五島市、上半分を上五島町として新しい行政区分になっています。合併前の福江島には、福江市、富江町、玉之浦町、三井楽(みいらく)町、岐宿(きしく)町という合計5つの町がありました。今はそれに奈留島の奈留町を加えて五島市となっています。市役所は旧福江市福江町、現五島市福江町にあります。
さて、ここまで福江のことを説明しておきながら、今さらという思いもしますが、実は当初私はジェットフォイルは富江へ着くものと思っていました。五島へわたる交通手段を調べておりながら、福江という地名は私の頭で富江に変換されていたのです。当初、私の頭のなかには、五島といえば富江(とみえ)という地名しかなかったのです。例え福江(ふくえ)と言われようとも、私には富江(とみえ)でした。なにせ小説『珊瑚』は五島の話で富江が舞台なのですから。誰がなんと言おうとも、私にとって五島といえば富江でした。ですから、ジェットフォイルは富江へ着くものと、富江へ着いたものと思い、初めて五島の地を踏みました。
■ 富江へ 私の行きたい富江は島の反対側にありました。福江からはバスで行けることが分かりました。福江は五島の主要な町ですから、バスの始発便が集中しています。富江までの便はおよそ1時間に1本の割合で運行していました。 福江を出たバスは、うねうねウネウネ、山道を上がって下りて進んでいきます。私はとにかく富江へ、ということだけを考えて長崎から船にのり五島まで来ました。福江から富江へ向かうバスに乗ったものの、富江が何処にあるのか知りません。バスが山へ上がっていき始めたので不安になり、途中でバスの運転手さんに聞きました。「富江はどこです?」すると、「富江はここです。」。つまり、福江から半分こっちは富江なわけで、そこにバスが至るとバス停の名前が何であろうとそこは富江なわけです。 ■ 大蓮寺へ 何はともあれ、私は富江に着きました。念願の富江です。とりあえず帰りのバスの時刻を確認し、さてどうしたものかとウロウロうろうろしていたところ小さな駄菓子屋をみつけました。私はとくにあては無かったのですが、珊瑚漁といえばやはり港だと思いたち、お店の方に港への行きかたを尋ねました。すると、ちょうどそこに居合わせた男性のお客さんが、港の近くの珊瑚屋さんまで車で連れて行ってくれると言い出しました。
訪れたのは、表に綺麗な深海珊瑚の拝見を飾っている珊瑚屋さんでした。ご主人によると、もう富江から珊瑚船は出ていないということでした。漁に出ても網に珊瑚が引っかからないからだそうです。そういえば、新田次郎さんが取材に来られたころ、昭和50年代の始めの頃だったと思いますが、その頃から既にこの辺りでの珊瑚漁はとても少なくなっていたと書かれていたと思います。五島近海での珊瑚漁が栄えたのは明治時代の後半からだとすれば、60年くらいでしょうか。他の宝石と比べても非常に希少なものだと改めて思いますし、また、過去におけるその資源の採取から消費については、資源の希少性という点から考えれば取扱いが安易に過ぎたのではないかと、少し感傷的な気持ちで港を散歩しながら感じたことでした。
その後、小説『珊瑚』のトピックとなった珊瑚船の遭難事故を思い出し、ゆかりのあるお寺を訪ねてみようと、交番で聞いてみました。「この近くで、昔遭難した珊瑚の漁師を祀っているお寺さんはありませんか。」すると、「寺やったら裏にある。」と教えてくれました。
そのお寺さんは大蓮寺といいました。海岸から100mくらいのところにあります。住職さんがいらしたので、このようなことで五島まで・・と伝えますと、そのお寺にいくつか建っていた珊瑚船の遭難碑を見せてくれました。そして、「うちだけじゃなくて、もっと古いお寺が、山のあっちのほうに、あっちがあれですから。」という感じだったと思います。つまり、大蓮寺さんから少し離れたもう一つのお寺さんが、もっと古くから珊瑚漁船遭難の供養をされているようなのです。 ■ 妙泉寺へ もう一方のお寺さんは妙泉寺というそうです。大蓮寺さんで行きかたを尋ねると、先ほど立ち寄った交番の隣にハイヤーがあるからそれを使いなさいと教えてくれました。
海のすぐ近くにあった大蓮寺から、山のふもとにある妙泉寺までタクシーで10分から20分くらいです。タクシーのおじさんに帰りのバスのことを伝えて迎えを頼んでから、お寺さんを訪ねました。ちょうどお寺の庭に住職の阪倉さんがいらっしゃいました。新田次郎さんの『珊瑚』のことや高知から来たこと、私自身が珊瑚屋であることなどをお伝えすると、上へあがっていくように言ってくれました。
お寺には、珊瑚漁船遭難の供養のために奉納された方々のお名前がありましたが、その中には高知の人や団体のものもたくさん見られました。また、住職の阪倉さんによると、私のように遠くからお参りにくる人も稀にいるそうです。作家の新田次郎さんも、ある日ひょっこりとお寺を訪れて、歴史のことを聞いていったということでした。 妙泉寺さんにも、珊瑚漁船遭難の碑が建っていました。その石碑には、遭難のあった年月と亡くなった方々のお名前が刻まれていました。
この時代、五島の珊瑚漁船はいく度も繰り返し大きな災害にあっています。大連寺と妙泉寺には、遭難した人たちを供養する複数の碑が立っています。遭難のたびに作られていったこれらの碑を前にしていると、こうした碑を横目に再び海に出て行った珊瑚漁師の、珊瑚にかける思いが伝わってくるように感じます。珊瑚漁には一攫千金のチャンスがあります。一発で家が建ってしまうようなこともあったそうです。漁師達は実際に身近な仲間連中のあいだにそうした夢のような状況を見ることがあったために、逆に身近な漁師達が遭難していくのを目の当たりにし、また自ら死に直面するような体験をしてもなお、繰り返し危険で魅力のある珊瑚漁に出て行ったのだと思います。
阪倉さんに話を聞いているところへ、バスの時間を心配したタクシーのおじさんが呼びに来てくれました。 ■ おわりに この旅では、当初、私は五島の地理など細かいことは何もわからず、ただ富江へ行こうということしか考えておりませんでした。ですが、行く先行く先で次々と導かれるようにして、妙泉寺に至り、阪倉さんにお会いすることができました。今年、明治39年の女島遭難から100年目にあたる大事な法要が営まれるにあたって、私のスケジュールは運良く空いておりました。再び五島まで足を運び、法要に出席することが出来ます。色々なことが、不思議なほどにスムーズに進み、私は五島に引き寄せられているようですが、これも珊瑚の縁なのだろうと思います。
![]() 富江を展望して |
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2. 女島遭難百回忌法要@妙泉寺さん 2005年10月27日(木)
![]() 妙泉寺の前で 10月23日朝8時半、高知の我が家を車で出発し、一路五島へ向かいました。ルートは高知から須崎市を経由して愛媛県の三崎へ、三崎からフェリーで大分の佐賀関に渡り、高速道路で長崎に至り一泊。翌日朝一のフェリーで五島へ渡り、福江から富江の妙泉寺までタクシーで向かいました。前回五島へ来た6年前は、福江から富江までうねうねと曲がりくねった山道をバスで通ってきましたが、今は山にトンネルが掘られて直線の多い綺麗な道が通っていましたので、福江から富江までの距離はとても短く感じました。
![]() 妙泉寺さんに到着したのは、24日の朝9時半ころ。10時からの法要のため、既に式の準備は整っており、多くの来場者を迎えておりました。 ![]() 五島市長の中尾郁子さん 式には、五島市長の中尾郁子さんが胸に富江産の珊瑚をつけてご出席されておりました。挨拶のお話では、100年前の遭難への追悼を述べられると共に、今後も海上の保安に努めていきたいと繰り返しお話されておりました。ここ五島という地域は、言うまでも無く周囲を海に囲まれた島々でできています。この地域においては、海と人々の生活は極めて密着したもので、海上の安全は直に市民の安全に繋がるものであり、海上の発展がまた、市の発展に直接繋がるものなのだと、市長のお話を聞きながら感じました。ここ五島の土地柄といいますか、五島という地域とそこに住む人たちの生活について、今更ながら「海」との関係を強く感じたことでした。 ![]() 古川さん(左)とご住職の阪倉さん(右) 阪倉さんは、今からちょうど50年前、女島遭難50回忌の法要が営まれた年にご住職になられたそうです。その頃、50年ほど前には、まだ女島遭難の生き残りの人たちがいらしたそうで、ご住職はその方々から直接当時のことを聞かれたそうです。100回忌の法要となる今日は、その聞き伝えられてきた話や、ご住職の思いをお話してくれました。
当時の珊瑚船は、5、6人の手漕ぎ船で、速度はせいぜい3ノットくらいだそうです。男女群島まで80キロ程度の距離を、今でこそ2時間程度で行くことができますが、当時の船ですと片道10数時間はかかったろうということです。当時はテレビもラジオもありませんし、気づいたころには向かい風で五島へ向かうこともできず、また港まで帰る時間も無く、男女群島の岩陰で難を避けようとした船が嵐の勢いにのまれて遭難してしまったのだそうです。遭難者は745名にのぼり、富江村だけでも145名という人の命が奪われ、その数は当時の人口から考えればとても大きな割合だったろうとのことです。港で漁師の帰りを待つ人の中には、海から声だけが聞こえたという人もいたそうです。残された人々にとって、悲しみは絶え難いものだったろうと、当時の人たちの思いを察しながらご住職はお話されておりました。
ご住職の案内で、現在五島市の市議会議員をなさっております古川ゆういちさんが、富江町の黒瀬地区に伝わる女島遭難の悲劇を伝える民謡を歌ってくれました。 黒瀬名所は こばとにてんき 前にゃつたりゃよ 横にはふたご 冲にゃ女島 あの六十四名の仇(かたき)の島よ 確かこのような歌でしたが私には聞き取ることができず上の詞は途中意味不明で申しわけありません。いそ節の替え歌だそうで、私には馴染みの薄い旋律ではありますが、この地に住む人々の呼吸が聞こえてきそうな独特の雰囲気をもっており、「あの六十四名の仇(かたき)の島よ」という詞は強く印象に残りました。
![]() 富江の風景を描いた水彩画 海の向こうに見えるのは福江 (妙泉寺さんに飾ってあったもの) |
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3. 男女群島へ 2005年10月27日(木)
五島で2日目となるこの日10月25日は、100年前に遭難事故のあった現場である男女群島まで、妙泉寺のお坊さん(ご住職の息子さん)と、ボランティアで船を出してくれた栗山さん(栗山建設の社長さん)、古川さん、昔ご親族を遭難で亡くされた方、漁民団の青年とともに供養に行きました。
![]() 栗山さんの船「美香」 最大40ノットは出るらしい ![]() 男女群島へ向かう美香 この日は驚くほど風の無い日でした。朝、山のふもとにある妙泉寺さんへ行ったとき、山の木の葉がピクリとも揺れていない状況をみて、ご住職を始め、皆で奇妙な感じさえすると話していたほどです。船の性能が向上し、正確な気象予測が可能な現代であっても、やはり海は危険なものです。五島に限った話ではなく海難事故は絶えませんし、男女群島付近でも未だに毎年一人か二人は波にさらわれて命を落としているそうです。ですから、実際に男女群島まで行くにあたっては、やはり風と波を心配しておりました。それが今日という日は、本当に不思議なほどに風がなく、波は穏やかで、私たちを海に招いているかのようでした。
富江の西側の港から出航した船は、とても穏やかな海上を30ノットで爽快に走りました(1ノット=時速1.852km→30ノット=時速55km)。船内には狭いながらも電子レンジとクーラーまでついた船室があり、航海は何もかも快適でした。
![]() 男島が近づいてきました 男女群島までは1時間40分ほどでした。曇り空で霧がかかった海上のかなたに、ぼんやりと島が見えてきました。男女群島の最北端にある男島です。この島には昭和40年代に、かつての遭難の供養のために千人塚が建てられています。ただし、島の周囲はほとんど険しい崖になっており、容易に上陸することは出来ません。
![]() 男島の千人塚のある岸 私たちの乗った船は、島の岸壁のうち千人塚のある側の比較的穏やかな岸に(とはいっても右の写真に見られるようなところですが、)できるだけ近づき、上陸するための手漕ぎボートを下ろしました。しかし、このころから急に白波が立ちはじめ、潮に流される手漕ぎボートは思うように進んでくれません。私たちの乗ってきた漁船は、自動で安定するように設定されているため潮に流されることなく同じ場所にとどまっていましたが、強くなり始めた波のためにエンジンは黒い煙を噴きブルンブルンと大きな音を立てました。どうにか目的の岸にロープを結びつけ、手漕ぎボートを往復させて供養のための碑や花などを運びました。 ![]() 手漕ぎボートで上陸します ![]() 慰霊碑を担いで島に上がっていきます 時刻は正午過ぎ、男島へ来ておよそ1時間が経過し、ようやく千人塚に新たな碑を建て終えました。
当初はお坊さんも男島の岸へ上がって供養をする予定だったのですが、意外に岸へ渡ることが難しかったため、今回は船からお経をあげてもらうことになりました。古い碑と新しい碑が2本ならんだ千人塚を前に皆で合掌いたしました。
![]() 千人塚に新しい碑を建て終えました ![]() 妙泉寺のお坊さんにお経をあげてもらいました ![]() 古川さん(左)と船長の栗山さん(右) ![]() 主人(左)と私(右) ![]() 男女群島の岩肌 千人塚を離れた私たちは、その後島々の随所でお経をあげながら男女群島の最も南にある女島へ向かいました。船は島の傍をすり抜けるようにして進みました。本で読み、話に聞き、想像を膨らませていた島の姿を、手を伸ばせば届きそうなほど近くに見ながら、私は感無量という思いでした。これらの島には、かつて多くの人々が命を落とした遭難の歴史が刻まれています。それは悲しいことではありますが、同時に、珊瑚を海の底から採ってくるという仕事が、かつてどれほど危険なことであったのかを示すものであろうと思います。そしてまた、その危険をも顧みず珊瑚漁に命をかけた多くの漁師達の珊瑚にかける思いと苦労を今に伝えるものでもあると思いました。
![]() 女島の港 女島はこの群島のなかで最も大きな島です。現在も無人島なのですが、岸には船をつける提が作られ、島の上には灯台と気象観測所、ヘリポートまで作られていて、観測所には常に数名の係員が2週間交代で駐在しているそうです。
女島に上陸すると、波打ち際に切り立った岩の上に幾つかの小さな碑が建っていることに気づきました。この島は昔から比較的上陸しやすかったために、男女群島付近で遭難した人たちの遺族が建てた碑がいくつもあるのだそうです。ただ、それらの多くは昭和62年の台風で流されてしまったそうです。私も岩の上をあるいているとき、小さな慰霊碑の跡をいくつかみつけました。台風がくればこの岩を簡単に越えるくらいの波が寄せてくるのでしょう。私の住む高知も外海に直面していますので、台風による高波の勢いは知っています。今回、男島に立ててきた碑は木製で、実際にどのように設置しているのか見ていないのですが、波にさらわれやしないかと心配になりました。 ![]() 女島の「男女群島近海遭難ノ碑」の前で合掌 私たちは女島での供養を最後に男女群島を後にしました。だんだん遠ざかっていく島影は、どこか寂しそうに私たちを見送っているようでした。私は、まだ気持ちの整理がつかないながらも、この気持ちを忘れないようにと、最後まで、遠ざかる男女群島を見ていました。 この日、夜は妙泉寺さんが宴を設けてくれました。ご住職を始め奥さんと息子さんに船を出してくれた栗山さんと古川さんも一緒になり、皆で遅くまで会食を楽しみました。私はこの楽しい時間のなかで、男女群島への航海で感じていた思いが明らかになるのを感じました。富江のみなさんに、そして富江のみなさんとの出会いを与えてくれた珊瑚と珊瑚の漁師達に、私は心のなかで、ありがとうと呟きました。
![]() 妙泉寺ご住職の阪倉さんと -完-
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